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「ああ、どうしよう…」
琴子は思わず溜め息をついた。
その手元には、編みかけのマフラー。と言いたいとこだが……まだ、その長さは首にようやく一巻きできるかどうか。完成には程遠い状態だ。
(今年こそは、絶対にバレンタイン当日に入江くんに渡したいのに~っ)
バレンタインまであと3日。不器用な琴子がそれまでに完成させるには……それこそ寝る間を惜しんでやってもできるかどうか、といったところだろう。
本当は、これを直樹には内緒で完成させて、バレンタイン当日にプレゼントしてびっくりさせるつもりだった。
しかし。
『マフラー、間に合いそうにないんだろ』
数日前の早朝、直樹にそう言われ、琴子はショックを受けた。
どうしてバレたのだろう…完全に隠していたはずだったのに。
しかも、間に合わなそうなことまで知られてしまって。
無理しないでいい、と直樹は言っていた。けれど。
その言葉に甘えるのも、妻としてどうか、と琴子は思う。
なんといっても。
(これを早く完成させないと…そして、入江くんに贈らないと)
去年のバレンタイン、直樹に渡すはずだった手編みのマフラーは、どういうわけかアニメ部のオタクの手に渡ってしまった。
このままでは、琴子が愛情込めて編んだマフラーをしているのは、この世であのオタクだけになってしまう。
(そんなのは嫌っ!)
むしろ、オタクに渡ってしまったことを記憶から消したいくらいだ。
それには、新たにマフラーを編んで、直樹に渡すしかない――琴子はそう思っていた。
(あたしが何かあげたいのは、入江くんだけだもん。ずっと前から、いつだってそうだもん!)
ただでさえ、このバレンタインという一大イベント、直樹には今までマフラーどころか、チョコすら渡せていない。
でも。
今や直樹は大事なダンナ様。
確かに、今のままでは到底当日には間に合わないが。
(そうよ。これは、あたしの愛情が試されてるんだわっ)
ここで挫けてしまっては、妻の名がすたる。
そんな思いが浮かび、琴子はきっ、と顔を上げた。その顔には固い決意がみなぎっている。
(何としても、これをバレンタインまでに完成させる!妻のプライドにかけて!!)
琴子はそう決意を新たにすると、再び編み棒を握りしめた。
***
「どう、琴子ちゃん。進んでる?」
「あ、お義母さん」
ノックの音の後、入ってきた紀子の姿に、琴子は手を止めた。
あれから、琴子は客間に閉じ籠り、ひたすら編み物に励んでいた。
幸い、今は大学は春休み中。とにかくこれに没頭できるのはありがたい。
夜もここで徹夜をし、今に至る。
「大丈夫?琴子ちゃん。はい、お茶淹れたから持ってきたわ」
「はい。ありがとうございますお義母さん。今のところ、うまくいってます」
「それならいいけど…でも、無理しないでね。」
さすがに寝不足なのだろう、赤い目をした琴子に心配そうな視線を向けながら、紀子はソーサーに載ったティーカップをテーブルの上に置いた。お手製のお茶菓子も添えられている。
「大丈夫ですよー。それより、絶対に今年はあたしが編んだマフラーを入江くんにプレゼントしたいんです」
「まあ、素晴らしいわ琴子ちゃん!お兄ちゃんはほんと、幸せ者ねっ」
いつものように明るく励ましてくれる紀子に、琴子ははにかんだような笑みを浮かべた。
それにしても。
「あたしも、お義母さんみたいに器用で、お料理も上手だったらよかったんですけど」
琴子の目線は、紀子の持ってきた手作りのお菓子に向けられていた。
それはお店に並べられても遜色ないくらい、見事なものだった。
「何言ってるのよ琴子ちゃん!こんなに頑張ってお兄ちゃんのためにマフラー編んでくれてるんですもの。お兄ちゃんだって、きっと感動してくれるわよっ」
「そ、そうかな」
「そうですとも!それに、本当に頑張ったのね…もうここまで編んで」
紀子の言う通り、マフラーはだいぶ長くなっていた。客間に籠ってから丸一日。本当に寝る間を惜しんで編み続け、なんと昨日の1.5倍近くになっていた。
琴子の根性の賜物と言えよう。
「何だか慣れてきたのか、だんだん編むのも早くなってきたみたいで」
お茶を一口飲み、琴子はまた手を動かし始めた。
このままのペースでいったら、何とか明日の夜には間に合うのではないだろうか。
「頑張って、琴子ちゃん!」
「はい!」
紀子の応援に、琴子はますます力を得、明るい顔で頷いた。
***
(うん、ほんといい感じじゃなーい。あたし、もしかして編み物得意になった?)
次の日の午後――つまり、バレンタイン当日。
着実に、マフラーは完成に近づいていた。
(ほんと、もう少しだわ…)
編み棒を操る手を止め、しばしマフラーの出来映えを見てみる。
(なかなかのものじゃない?)
去年の、オタクに渡ってしまったマフラーよりは上手にできている気がする。
(これも、妻として成長したってことかしら)
琴子はにんまりと笑った。
端から見ると、お世辞にも上手とは言えないが琴子にしては上出来と言えるだろう。
(この調子、この調子…っ)
編み棒を取り上げようとしたところで、大きな欠伸が出た。
少しほっとしたからだろうか。不意に強烈な眠気が襲ってきたのだ。
「ん…だ、ダメよ…もう少し…もう少しなんだから……」
必死に目を擦り、自分自身を叱咤する。編み棒をぎゅっ、と握り、動かそうと試みる。
でも。一度襲ってきた睡魔は、なかなか戻っていってはくれなくて。
それでも、一生懸命に毛糸を編み棒にかけ……
かたん。
他に誰もいない客間に、編み棒の落ちる音が響いた。
ゆらり、ゆらり。
(な、に……?)
全身に心地よい揺れを感じて、琴子の意識はふと浮上した。
(何だろう…それに、何だか温かい……)
伝わるぬくもりは、とても安心するもので。
ずっとずっと、包まれていたくなる――
これは、何……?
ううん、あたし、知ってる。前からずっと、知ってる……
これは。
「……入江くん……」
そっと目を開けた琴子は、目の前に見つけた瞳に、その名を口に乗せた。
そこから、急に我に返る。
「あ、あたし、ま、マフラー」
「こら、動くなって」
琴子のちょうど耳元にあった直樹の唇から、たしなめるような声がした。
そこで初めて、琴子は自分が直樹に抱き上げられ、運ばれていることを知った。
「い、今何時!?あ、あたし……」
「夜11時半過ぎ。風呂入って、覗いてみたらお前床で寝てて。風邪引くだろうが、ったく」
「11時半!?」
途端に悲鳴のような声を上げた琴子。慌てて、直樹の腕の中から降りようとする。
どうやらだいぶ長い時間、眠り込んでしまったらしい。
「だから動くなって」
ぎゅ、と強い力で閉じ込められて、琴子は焦る。
「で、でももうバレンタイン終わっちゃう…」
「別に今日じゃなくていいから」
そう言って、直樹は琴子の体をベッドに下ろした。
琴子は慌てて起き上がり、ベッドから降りようとする。
「ちょっと…!」
その両肩を直樹は押さえると再び琴子をベッドに沈めた。琴子から悲鳴が上がる。
「でも、もう少しで完成するから」
「俺、無理しないでいいって言っただろ?」
「そ、そうだけど」
「それにさ」
直樹は琴子の頬に手を伸ばし、触れた。真っ直ぐな瞳が琴子を囚える。
「バレンタインじゃなくたって、お前からはいつも…たくさんもらっているから」
「え?」
――どういうこと?
そう訊こうとした琴子は、それ以上言葉を続けられなかった。
直樹の腕の中に閉じ込められていたから。
ぎゅ、と力強く抱き締められ、琴子は目を見開いていた。
「い、入江くん……?」
身動きできない程に抱き締められた中で、琴子はそれでも顔を上げ、直樹の顔を見ようとする。
「入江くん…」
「言えよ。いつもの」
しばらくの沈黙の中、ようやく聞こえてきたのは、そんな言葉だった。
「いつもの、って…」
「いいから言えって」
戸惑いながら聞き返す琴子に、直樹はすかさずそう言った。…若干のもどかしさを滲ませて。
いつもの――いつもの言葉。
琴子が、直樹に一番言いたい――伝えたい言葉。
それは、いつだってひとつしかない。
「入江くん、大好き」
そう、琴子が口にした刹那。
その唇に、柔らかい感触が、そっと降ってくる。
それは、何よりも甘い、直樹からのキス。
「入江、くん……」
吐息とともに琴子の口から声が零れ出る。
ここ数日聞いていなかった自らの名を呼ぶその声に、直樹の体が僅かに震えた。
マフラーなんかなくても。
その言葉だけで、このぬくもりだけで、十分満たされた気持ちになる。
いつだって、琴子は自分に、惜しみない愛情を注いでくれるから。
だから、こうしてそばにいてくれればいい。
そして。
(この首には、何もつけないでおくよ)
このマフラーができるまで。
まだまだ寒い日は続くけれど。
不器用な琴子が、自分のために一生懸命編んでいるから、直樹がつけたいマフラーは、他にはない。
(風邪引かないようにしないとな)
密かにそう苦笑すると。
直樹はもう一度、琴子の唇にキスを落とし、数日ぶりに味わうその甘さに酔いしれていった――
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